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第3回アフラシア国際シンポジウム(Phase 3)----"Time, Ethics and Global Affairs"----を開催しました。

活動報告
2018/03/23

Phase 3 3回アフラシア国際シンポジウム

The 3rd Afrasian International Symposium

Time, Ethics and Global Affairs

【日時】2018120日(土) 10:0018:00(開場 9:30

【会場】龍谷大学 深草キャンパス 和顔館 B107教室

【主催】 龍谷大学アフラシア多文化社会研究センター/日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業

※本シンポジウムは[JSPS科研費基盤研究(A)15H01855]の助成を受けています。

【登壇者】

Keynote Speaker

Kimberly Hutchings (Queen Mary University of London)

Panelists

Tony See (National Singapore University)

Shine Choi (Massey University)

Satofumi Kawamura (Kanto Gakuin University)

Nobutaka Otobe (Ibaraki University)

J. Pilapil Jacobo (Ateneo de Manila University)

Hiroaki Ataka (Ritsumeikan University)

Akira Yoshida (Ryukoku University)

Chairs

Panel 1: Junya Takiguchi (Ryukoku University)

Panel 2: Ching-Chang Chen (Ryukoku University)

Discussants

Keynote Speech : Giorgio Shani (International Christian University)

Panel 1: William Bradley (Ryukoku University), Kosuke Shimizu (Ryukoku University)

Panel 2: Thouny Christophe (Kyusyu University)


【写真:開会挨拶をする清水耕介アフラシア多文化社会研究センター長】

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 2018年1月20日(土)、龍谷大学深草キャンパスにて、アフラシア国際シンポジウム"Time, Ethics and Global Affairs"を開催した。本シンポジウムを開催するにあたって、ご尽力・ご協力いただいた関係者の皆様方に改めて深く御礼申し上げる。本シンポジウムでは、国際関係理論に内在する西洋中心主義や国家中心主義だけでなく、そうした理論形成の前提となっている時間についての観念を、国際関係理論だけでなく、哲学、宗教、美学、地域研究の観点から問い直すために、各分野から様々な論者を招いた。特に、国際関係理論・時間・倫理という一連のテーマについては、Time and World Politics (2008)やGlobal Ethics (2010)などの著書があるキンバリー・ハッチングス(Kimberly Hutchings)氏をQueen Mary University of Londonより招聘し、多元的な時間性からグローバルな国際関係理論と倫理をいかに捉え返すことができるのかということについて基調講演をしていただいた。

 これまで龍谷大学アフラシア多文化社会研究センターでは、国民国家を主要なアクターとして認識する従来の国際関係理論に対して、多様なア クター間の相互作用から生み出されるグローバル社会の力学と、その力学に適合しうるガヴァナンスのモデルを構築するために、国際関係学、歴史学、思想・哲学、地域研究など、領域横断的な視点から研究活動を積み重ねてきた。前回のシンポジウムは、「存在論」という観点から、国際関係理論で前提とされている「主体」の問題を捉え返そうとするものであったが、今回のシンポジウムでは、「存在論」の問題から発展させるかたちで、さまざまな時間性(temporalities)のなかで人々が存在し、関係しあうグローバル社会の現実をいかに理論化しうるのかが論点となった。



基調講演

キンバリー・ハッチングス(Kimberly Hutchings)氏 

'Temporality(ies) of Judgment in International and Global Ethics'

「国際/グローバル倫理における判断の(様々な)時間性」

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基調講演では、ハッチングス氏が「国際/グローバル倫理における判断の(様々な)時間性」というテーマで講演を行った。講演で中心となった論点は、国際政治の文脈で支配的な西欧型の近代化の見方であり、その見方に内在する時間観念を乗り越えることである。私たちがグローバルな政治を理解しようとするとき、すでに特定の時間観念を前提してしまっている。しかし、時間観念に無反省なところから世界を客観的に説明しようと試みることは、世界を単一の時間観念のもとで理解しようとする暴力と表裏一体の関係にある。そうならないために、時間性について反省的なグローバルな政治への理解を探求する必要があるが、その試みは、時間性から自由な理解や倫理と相容れない。時間性から自由なところから世界を理解することは、しばしばある者を進歩的、またある者を遅れたものとするギャップを生み出してしまう。逆に、グローバルな倫理は、様々な時間観念がありうることを考慮にいれたうえで、他者のコントロールを回避するものでなければならない。ポストコロニアリズムにおいても強調されてきたように、歴史の過程は、単一の時間観念によって成立しているのではない。むしろ、ディペッシュ・チャクラバーティ(Dipesh Charkrabarty)が主張したように、異種混交的な時間性を含んでいる。そう論じたうえで、ハッチングス氏は、今後の国際関係理論にとっての課題として、異なる慣習や宗教的世界観に内在する時間性についての理解を比較すること、また、誰が誰に向けて語りかけ、誰が誰を理解しようとするのかと問いながら、倫理的判断力を培っていくことなどの重要性を強調した。


PanelOn the Moment of Opening: Revisioning the Present(開かれる瞬間:現在性再考)

トニー・シー(Tony See)氏 

'Heidegger and Shinran: On Temporality, Faith and Ethics'      

「ハイデガーと親鸞:時間性、信仰、倫理について」

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シー氏の発表は、マルティン・ハイデガーの時間概念を親鸞の「他力本願」の宗教観から捉え返すものであった。ハイデガーの哲学において、時間は、単に過去・現在・未来というかたちで秩序づけられた過程ではなく、行為と切り離したところで理解することができないとされる。本来的に、時間とは、行為によって過去と現在が未来へと開かれることから捉えられるものである。ハイデガーは、西洋形而上学の伝統における現象から超越した真理を認識するための哲学という見方を乗り越えるために、行為と時間の密接な結びつきを強調し、時間性に本来的に立ち戻る哲学を提示した。だが、ハイデガーの哲学において、未来へと現在(あるいは過去)を開く行為には、その行為を決断する主体が想定されており、行為する者に特権的な決定権が残されている。シー氏は、ハイデガーの議論に基づいて、本来的な時間性とは、「あるがままにさせる(放下、Gelassenheit)」ことで生きられるものであり、その時間性に自己を開くことは、自己を超えた力に身を委ねることであるとする。またそこから、氏は、この見方を体現する思想を親鸞の「他力本願」に見出すことができると指摘した。「他力本願」には、世界の生成の過程との結びつきだけでなく、その生成過程全体を認識することが不可能であるという命題も含まれている。つまり、「他力本願」という宗教観における時間性に開かれた行為とは、行為する者の有限性が生成の無限性によって浮き彫りになるということなのである。



川村覚文(かわむら さとふみ)氏 

'The Earth, Nothingness, and Politics: Nishitani, Suzuki, and Nishida'

「大地、無、政治:西谷、鈴木、西田」

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川村氏は、西田幾多郎の鈴木大拙、西谷啓治らへの影響を、時間という観点から捉える発表を行った。特に、発表では「永遠」という概念に焦点が当てられ、いかにその概念が西田から影響を受けた鈴木や西谷の議論において日本という共同体的文脈に結びつけられていったのかが示された。西田哲学は、近代的な認識論における主観/客観の区別に対して、主客が未分化な状態において存在するという経験を論理化しようとした。主客未分化な「純粋経験」から、世界を認識する主体/認識される客体という区別の妥当性が根源的に問い返される。「純粋経験」から見れば、過去や未来は、そのつど瞬間がまた次の瞬間に過ぎ去り、新たな瞬間が到来したりする時間の概念を指しており、実際のところは「永遠の今」だけが持続している。さらに、西田哲学では、何か認識される対象が存在するという有の論理に対して、「永遠の今」の持続という哲学から見れば、認識対象とされる世界の実体は、根源的に「無」だとされる。鈴木大拙や西谷啓治らは、西田哲学からの強い影響のもと、「永遠」や「無」をより強く日本的な伝統へと接合しようとした。鈴木大拙は、『日本的霊性』において、「霊性」を「永遠」と結びつけるだけでなく、「永遠」を「大地」と結びつけたうえで、日本人の日常世界を規定する仏教的世界観を示した。また、西谷は、「無」の土壌を持つ「日本的霊性」の普遍性を強調する。くわえて、西谷は、「永遠」という時間に触れるためには、「自己」を否定することが重要であることも強調した。このように、いわゆる「京都学派」の哲学は、時間に関して言えば、「永遠」をめぐって思考を展開してきたのであり、また、このことが、対象として認識しうるものの位置づけを低く見積もることに結びつくという問題も引き起こしてきた。とはいえ、日本において時間性を考えるとき、西田が提示した「永遠」についての哲学が回帰せざるをえないのであり、認識対象の存在との緊張関係のなかで「永遠性」の概念を時間性の議論の文脈に組み込み直す必要性が出てくる。




吉田哲(よしだ あきら)氏 

'A Modality of Temporal Theory in Buddhism'

「仏教における時間論の一様相」

DSC_0295-thumb-200x203-1472.jpg吉田氏は、インド仏教哲学を専門とし、当シンポジウムでは、紀元前2世紀頃のインドにおいて独自の学派を形成していたサルヴァースティヴァーディン(Sarvāsti-vādin, せついっさい)の時間認識についての発表を行った。サルヴァースティヴァーディンという学派名は、サルバ(すべてが)・アスティ(存在する)・バーディン(主張する者たち)という意味からそう呼ばれる。つまり、この学派では、何かが思考されるとき、その何かは実在していると考えられるのであり、過去・現在・未来もその例外ではない。この見方の特異性は、多くの仏教諸学派では、存在するのは瞬間のみであり、過去や未来は幻想にすぎないと考えられていることからも明らかである。だが、そうであるがゆえに、サルヴァースティバーディンの汎実在論は、仏教諸学派のなかで低く評価されるものであった。この学派によれば、ダルマ(dharma, 法)が実在し、あらゆる現象を構成する。またこのとき、時間の実在ということについては、時間を構成するダルマの実在が想定される。そのダルマの実在が過去においては「過去」の姿をとって実在し、未来においては「未来」の姿をとって実在すると考えられている。したがって、現在の瞬間が過去になって、その瞬間が消え去るのではなく、ダルマの実在が未来から現在、現在から過去へと実在し続けると考えられたのである。しかし、この学派に対しては、仏教の中心的な考え方である「諸行無常」に反するだけでなく、結局のところ過去も未来もすべてが現在において存在しているという矛盾を含んでいる、などの批判がなされた。サルヴァースティヴァーディンの「異説」は、いまや影響力を持つものではないが、現在の仏教諸学派の時間についての見方も、こうした「異説」との格闘のなかで練り上げられてきたのである。




パネルTime, Duration, and Ethics (時間、持続、倫理)


J
・ピラピル・ジャコボ(J. Pilapil Jacobo)氏

 'Recalcitrant Rhythmes: A Poetics of Time from the Philippine Post-colony'

「抵抗するリズム:フィリピンのポスト植民地時代における時間の詩」

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自身もフィリピン出身であるジャコボ氏の発表は、19世紀フィリピンの詩人フランシスコ・バラグタス(Francisco Balagtas, 1788-1862)の物語詩Florante at Laura(1838)を取り上げ、このタガログ語で書かれた作品に内在するフィリピン固有の状況と結びついた詩的な世界観を明らかにするものであった。この作品は、中世のアルバニア王国が侵攻され、その王国の君主であるフロランテが戦いに敗れ、フィアンセであるラウラ(Laura)を敵方に奪われ、深い森のなかの木に縛りつけられながら死を待つ中で、フロランテの祖国やフィアンセが奪われた怒りや絶望を詠うという悲劇的なものである。この詩は、フロランテの深い内面的な情念を、祖国の外部との関係と切り離して理解することができないという点で重要である。また、このことを、フィリピンが置かれた国際的なパワーポリティクスの状況と重ね合わせると、この詩がフィリピンの人々の感情に強く訴えかける理由も明確になる。つまり、タガログ語という固有の言語で書かれたこの詩は、深い内面の表現であるだけでなく、フィリピンという土地が置かれた政治的状況や植民地の経験と結びついているのである。言い換えれば、その詩は、フィリピンという土地に生きるということがその土地から追放されているということと表裏一体であることを表現しているのであり、この意味で、フィリピンの人々には、フロランテと共鳴する感覚が刻み込まれていると言えるのである。



シャイン・チョイ(Shine Choi)氏

'Nonalignment as an Aethetic: Lines, Temporal Forms and Anti-imperial Politics'

「美学としての中立:線図、時間形式、反帝国の政治学」

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チョイ氏は、政治的に中立であることの意味を、根源的に捉えなおす発表を行った。発表のなかで政治的中立の例として挙げられたのが、冷戦期の大国の政治関係から一線の画そうとしたアジア、アフリカ諸国の連帯の試みであった「バンドン」体制である。しかし、植民地の経験をもつ諸国で形成されたこの体制は、その後の各国の政策転換により分裂してしまった。だが、世界の状況がイデオロギー対立では塗りつぶせないものであるとすれば、「中立」を通じた連帯の可能性を再び考えてみる必要がある。しかし、氏は、単に「中立」の政治的な再評価をするのではなく、「中立(nonalignment)」という概念の意味をその根源に遡って考え直そうとする。Nonalignmentという語は、語義的に"line"(線)を含み、何か直線的ではない線画、多様な広がりやパターンや動態性を内包する線の引き方という意味を含んでいる。Nonalignmentとは、根源的には、美学的な範疇としても捉えられるのであり、政治的な抵抗概念としての「中立」もこの観点から捉えなおすことができる。たとえば、様々な関係性から成り立つ世界のなかで、私たちが世界を認識するとき、すでに何らかの「線」を引いてしまっている。国際t系な政治的対立を理解するときにも、私たちは、国家間関係というかたちで線をあらかじめ引いてしまっているのである。だが、美学的な線として「中立」を捉え返せば、そうした対立線をずらすという行為に抵抗の拠点を見出すことができるのではないか。氏の発表は、北朝鮮とアフリカ諸国との間で生み出されている抵抗の記憶の共有にまで話題が及び、現代世界の政治的対立状況においても、私たちがすでに引いてしまっている「線」を、たとえば個人対個人の関係性に引き直すことで、既存の対立図式を塗り替えるきっかけになるということを示すものであった。

乙部延剛(おとべ のぶたか)氏 

'Contentious Nature of Regret: Hideo Kobayasih and Communities of regret in Post WWII Japan'

「後悔の論争的性格:小林秀雄と戦後日本の悔恨共同体」

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乙部氏の発表は、丸山眞男が1977年に戦後日本社会の風潮を捉えて概念化した「悔恨の共同体」を問い直す視点を、小林秀雄の「反省しない」という発言の背後に見出そうとするものであった。丸山は、戦後日本社会が第二次世界大戦に対して後悔の記憶を共有している状況を「悔恨の共同体」と呼んだ。丸山にとって、国内外の人々の自由を抑圧して遂行された戦争に対する「悔恨」の記憶を保持し、そこに絶えず回帰することが戦後日本の民主主義の構築のために重要であった。他方、小林秀雄は、日本の戦争責任の問題について、自身の「無知」ゆえに「反省しない」と語った。この発言は、小林の文芸評論家ゆえの政治的無関心であると受け止められてきた。しかし、氏は、小林の思考を追っていくと、必ずしもそうとは言えないことを示す。というのも、小林は、「悔恨の共同体」と丸山が呼ぶ風潮のなかに、戦後日本が「民主主義」という普遍的原理を無反省に前提として取り入れ、その結果として敗戦を真正面から受け止めることを避けていることを感じ取っていたからである。氏によれば、小林の戦後日本に対する考えのなかで最も重要なことは、時間の外に立つ普遍的な原理を前提とせずに思考を進めていくということであった。氏の発表では、普遍的な規準から共同体を理解することに抗しながら、論争的であろうとすることを通じて共同体に関わる議論を積み重ねていくことの重要性が強調された。


安高啓朗(あたか
ひろあき)氏 

'Temporal Assumptions in Global IR: A Critique'

「グローバルな国際関係理論の時間的な前提:批判的観点から」

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安高氏の発表は、国際関係理論における英国学派の議論に基づきながら、国際社会秩序が多元的に相互作用しながら歴史的に形成されるものであることを、「ウェストファリア史観の脱構築」という観点と絡ませながら示すものであった。氏の発表によれば、多元的な国際社会秩序を捉えるためには、非西洋地域の歴史がいかに現在の国際秩序の形成に結びついているかという問題に注目することが重要になってくる。英国学派の議論は、国際社会秩序の形成過程に作動している多元性を重要視する。それに対して、国民国家の形成を前提とした西洋中心の物語では、非西洋地域は、つねに過去のものとして扱われてしまい、国際秩序の形成要因から除外されてきた。だが、国際社会秩序は、国民国家を基本単位とするシステムの構築を目的として形成されてきたわけではない。そうではなく、現在の国際社会秩序は、多元的な世界観や時間観念を有するアクターの相互作用によって進化し続ける過程のなかにある。氏は、同発表において、この過程を的確に理解するためにも、国際関係理論は、国際社会の秩序を生み出す多元性に着目すると同時に、多元的な歴史記述をも理論へと組み込まなければならないことを強調した。



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DSC_0312-thumb-200x201-1491-thumb-190x190-1492.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像DSC_0416 (2)-thumb-190x257-1494-thumb-150x202-1495.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像











【写真(左):基調講演でディスカッサントを務めたGirogio Shani氏】

【写真(中):Panel 1でディスカッサントを務めたWilliam Bradley氏】

【写真(右):Panel 2でディスカッサントを務めたThouny Christophe氏】

以上のように、本シンポジウムでは、ハッチングス氏が基調講演で示した多元的な時間性という視点と関連する様々な分野や角度からの発表がなされた。その他にも、討論者および会場からの様々な質問を通して、それぞれの発表について議論が活発に交わされたが、ここでその全容を記すことはできない。本シンポジウムに参加し、活発な議論に貢献してくださった皆様には深く感謝したい。最後に、このシンポジウムを通じて、「時間」を主題として設定することで、自明のものとして受け入れられている国民国家や西洋型近代化に基づく理解を問い直し、グローバルな社会秩序が形成される過程を捉え直すきっかけとするができたのではないかと思う。また、このことは、私たちが意識しないうちに、すでにグローバルな社会秩序の形成過程のなかに巻き込まれてしまっていることをも意味する。しかし、そのグローバルな過程に巻き込まれているということと、単一の世界観の構築に向かうこととは別ものである。本シンポジウムは、地域間で交差しあう時間性を考慮に入れることがグローバル社会の理論化や分析にとってだけでなく、今日のグローバル社会を生きる倫理としても重要であることを確認するものとなった。

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